沼落ちはとつぜんに

唐突にセクゾ沼に落ちた大人。語りたいので作りました。

センスという言葉

最近よく考えていること。センスという言葉。

わたしは、好きなものにたいして「センスが良い」という褒め方をしがちであるのだけど、そもそもセンスってなんなんだ、と考えるようになった。

というのも、「かっこいい!」「かわいい!」だとか、「ダンスが、歌が上手い!」「顔がいい!」みたいな褒め言葉以上に、曖昧でそれぞれに解釈が委ねられるというか人によって基準の変わる言葉だなあ、と思うから。

それでいて、私が何かを「推す」ときに一番大事なのは、顔の良さでも、ダンスの上手さでもなく、「センスの良さ」なので、これはきちんと理解しないと自分の好きなものがわからなくなるな、と思うなどしており、、、

 

前置きが長いですね。

まず手始めに、センスという言葉を辞書で引くなどしてみました。

センス(sense)
1 物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの。
「文学的なセンスがある」「センスのよくない服装」「バッティングセンス」

2 判断力。思慮。良識。
「社会人としてのセンスを問われる」

 …まあよくわからないですな。私が言う「センス」は1つめの意味であることは間違いなくて、「何かを悟る能力」っていうのは納得感があるのだけれど、何を悟るの?っていうとことが大事なんじゃないかなーと思ったり。

とりあえずここまでで考えると、「私はセンスの良いグループが好き」は「私はxxxを悟って表現してくれるグループが好き」になるのかなーと思って、xxxに入るのは「私の好み」に集約されるのかなあと思ったりします。

というのも、私がセンスが良い~~と思うものが必ずしも世間で流行るわけではないし、そういう瞬間に「世間見る目ない!」と思うかといえばそうではなくて、時にはむしろ「世間に迎合しないセンスの良さ」みたいなものすら感じたりするわけです。(恥を忍んで言うと(?)、通ぶりたいというか、一般大衆にはわからないものがわかる、みたいな感じで自尊心がむしろ満たされるという側面もあるんだとおもう、私はね)

(余談ですけど、「別に他人がやっててもどうも思わないけど私はやらない」とか「私がこう思うだけ」みたいな文脈って、他人に気を使っているように見えて、じぶんに予防線引いてるだけでふつうに否定されるよりも実は排他的というか他人を傷つけるなあ、というのが最近の学びで、あんまり言わないようにしてるのに言っちゃったな、私はねって)

 

逆もまた然りで、私が「センスないな~」って思うコンテンツも、世間で流行っていたりする。それって本当にそのコンテンツにセンスがないのか、むしろそれがわからない私にセンスがないのか、、という堂々巡り。結局、だれから見るか、で「センスが良い」という基準は変わるわけで、センスが良い=私好みのものっていうところに行きつくと、私が好きなもの=センスがいい=私好みっていうあたりまえ体操すぎてここまでの話なんなの!?っていう結論になり、、

かけたのですが。

 先日、ごはん食べているときに母が(余談、私の母は料理上手かつそれをめちゃくちゃ自負している笑)、「私の作るごはんほんと美味しいわ~センス抜群だわ~~料理って技術よりセンスだよねえ~~」などと言っていて、ハイハイって聞いていたんですけど

好きな食べ物っていう切り口で考えると、必ずしも好きなもの=センスの良いものとは限らないなと思っていて。例えばファーストフードとか、安いお菓子とか、センスはない!雑!でもそりゃ美味いわ!!みたいな、みんなそりゃ好きだよ!糖と油って本能だよな!!みたいなものってあるなあ、って思ってしまい。(マジの余談ですが、先日行った某東南アジアの料理はまさにこれでした。繊細さは皆無だったけど何食べてもアジア人の本能が喜んでいる味がした。)

そこからまた考え始めたら、そういえば中高生のとき別ジャンルのオタクしていたときは「センスが良い」なんて言葉を使わなかったなあって思って、「センスが良い」は本能よりも頭で考えた結果好きになるものかな?と、、。

大人になって自我が確立されてきて、自分の好みを頭である程度整理できたうえで、「自分好み」と認識したものが私にとって「センスが良い」ものだなあ、という結論にたどり着きました。

頭で整理したうえで好きだから、ある程度理由も理解しているし、(例えば、その努力の仕方が好き、とか、先進的な考え方が好き、とかね)、そのコンテンツが好きな自分が好きになれるものだなあーって思う。だからほかの人にも堂々と好きなんです!って言えるし、理由聞かれたら答えられるし、なんならそれが自分の考え方の表明にすらなる、気がする。

(逆に本能であ~~~好き~~~~~ってなったものは説明できないし、ときにそれが好きな自分に絶望したりもする。自分センスないなーーでも好きーーーーみたいな、、)

(余談(なんこめだよ)。私はアイドル個人を推す時は本能で選んでいる気がするな。その人が属するグループのセンスが悪いと長続きしないという側面はあるけれど、自担、としている人は本能だなー。抗えない。そのグループ内で自担じゃないけどアイドルとして好きー!みたいな人がいたりするけれど、それは私のセンスと合致する人、みたいな感じですかね)

 

さらに言うと、基本的に自己肯定感が低くて、自分のセンスに自信を持っていない私なので、「センスが良い」と判断して好きになったものを、他人(特に自分の信頼している人)がほめてくれたり、好きになってくれたりすると、自分に自信が持てたりする。

逆に、そういうコンテンツとかに自分の考え方とかを乗せすぎているので、結構簡単に本人たちと解釈違いを起こしてしまったりする。

(公式と解釈違いを起こしたらオタク側が悪い、というのが通説だけど、まあそりゃあそうなのだけど、私みたいに自分の思想を投影しちゃうオタクとしては、許してくれよな、、と思うのです)

でも、こうやって大人になってきて、自分の好みや考え方が整理されると、嫌いなものや合わないものを避けられるようになるし、好きなものとも出会いやすくなるし(そしてそれによって自己肯定感を高めることができるし)生きやすくなるなーと。あまりやりすぎると視野が狭くなって偏屈になっていくからバランスを気をつけないといけないけれど。

というか、こうやって自分のすきなものとか考え方を整理する、というか、自分を肯定するためにコンテンツへの投影を必要とするのがオタクという人種なのかなあ、と思ったりする(オタクの人ってジャンル変えても一生オタクだし、逆もまた然りだし)

前述の私の母は、めちゃくちゃ自分のことが好きっぽいのだけれど、私は母みたいにまっすぐ自分を好きでいることはできないけれど、「センスの良いコンテンツが好き」な自分のことは割と簡単に好きでいられるのですよ。回り道しているだけで結局自己愛であることは変わらないのだけれど、そういう予防線みたいな、言い訳みたいなものがないと「自分が好き」と言い切れないのが私の自己肯定感の低さであり、それと共存するプライドの高さなのだろうなあ、と、、(これは私の永遠のテーマであり、それを可視化した(と私は解釈している)コイベビは大っ嫌いで大好きで、コイベビの話は一生する)

まあ結局、いろいろな応援の仕方があるけど、私にとって「センスの良いものを推す」ことは「自分の考え方を肯定する」こととイコールなので、自分が好きじゃないもの、好みじゃないもの(時には嫌いなもの)を否定することは、誰かの考え方を否定することになるかもしれないなーと自戒。また、何かをほめることでほめていないほかの何かを下げることにも気を付けたいなあ。

話がとっちらかったけれど、自分用メモとして。