沼落ちはとつぜんに

唐突にセクゾ沼に落ちた大人。語りたいので作りました。

この時期の現場を通い終えて思うこと。

本日無事、橋本くんの舞台の千秋楽が終わった。
普段だったら「終わらないで~!」 という感情が一番に来るところ、 無事終わった安心感のほうが強いのがちょっと寂しいけれど、 一公演も中止にならず、千秋楽まで上演できたことを、 今は素直に喜びたいと思う。
あとはここから2週間程度、私にも、 あの舞台に関わったすべての人にも、 何もないことを祈るばかりだ。

感染リスクや、社会的な死() にビビりながらもしっかり初日から千秋楽まで通ってしまったクソオタクの私だが、久々に現場に行って、 やっぱり現場っていいなと思った。あと、 私もアイドルも生きているな、実在するな、と思った。

現場の前日、いつもよりちょっと長めにお風呂に入る。 そして爪を塗る。
当日は、いつも通り家で仕事をこなしながらも、 合間に身だしなみを整える。最近は出かけることも少ないし、 マスクもしているしで手を抜きがちな化粧をきちんとする。
メンバーカラーの服にしようかな、と悩んで、 でも個人仕事だからなあ、 なんて思って結局全然関係ないただ気に入っている服に着替える。 でもアクセサリーや爪の色はメンカラだったりして、 中途半端な自分にすこし苦笑いする。
こうしているうちに少しずつ、少しずつ、 現場に向けて気持ちが整っていく。

舞台の内容に思いを馳せながら電車に乗る。 会場の最寄で電車を降りると、もしかして目的地同じかな? という人もちらほらいて、勝手に仲間意識を感じてみる。
会場で、たまたま会った知り合いと「 橋本くんがんばってますねー」なんてちょこっと言葉を交わしたりなんかして、 席に着く。
席が近い日は、「今日は近いなー!」と思ってうれしくなるし、 遠ければ「これはこれでありかも」と思ってみたり、 より見やすい角度を探して双眼鏡を調整したりする。 開演時間が近づいてくると、ああ、そろそろ始まる、と思って、 出演するわけでもないのにだんだん緊張してくる。
ちょっと前まで当たり前だったルーティーンが、 ところどころ形は変わっているけれど、確かに、 劇場にはまだあった。

在宅勤務をしていると、どうしても、 私の中の公私の境界線があいまいになる。
今まで、場所や、服装や、 時間でほとんど完全に仕事とその他を分けていた私も、 まず場所や服装で仕事とそれ以外を切り分けることができなくなった。
それなら時間できっちり分けられればいいのだろうけど、 さぼり癖のある私は(会社に通ってた時もやってたけど) ついついツイッターしちゃったり、 テレビ見ながら仕事しちゃったりする。
合間に休憩がてら家事したりもするから、 時間の分割損は減っていると思うし、通勤時間だって無くなるし、 もちろんいいこともたくさんあるけれど、 この自分と自分が溶け合っていくことについて違和感がないと言ったらうそになる。

そんな中で、今回現場に通っているときの私は確かに「 現場に行くオタクのわたし」だった。
場所も、時間も、身にまとうものも、 今回の舞台のためだけに用意した「純度100%のわたし」だ。
これまで特別に感じたことはなかったけれど、 これは想像以上に贅沢なことだ。仕事にも、それ以外のことにも、 邪魔をされない、舞台のためのわたし。
いくつかあるわたしの側面の一つだけを切り出せた時間が、 現場ではいまのところまだ保証されているということに気がついて 、ただただうれしくなった。
配信も見るし楽しんでいるけれど、それでも私はやっぱり、 そこに行くまでの工程や場所も含めて「現場」が好きだなあ、 と思ってしまった。このご時世こういう実感をしてしまったのが、 良いのか悪いのかはわかんないけど。
(一方で、前回書いたように、ウイルスはそんなこと気にせず、 どんなわたしでも媒介になりうるのがつらいところなのだけれど)

<おまけ>
こうして、日常から切り離された「現場に行くオタクのわたし」 の時間を過ごすと、 最近平坦にただただ過ぎていっている普段の日常の輪郭が、 すこしだけクリアになった。毎日私って生きてるんだなあ、 と。

それと同時に、私が応援しているアイドルも「 生きているんだなあ」と実感した。

皆さんご存じの通り(?)私は、私の中の〇〇 君像をひたすら組み立てるタイプのオタクである。 特に橋本くんに対してはそれが顕著で、 私の見ている橋本くんと同じものを見ている人はきっといないと思 うし、実際の本人( そもそもそんなもの定義できるのかという話もあるけど) とも私の橋本くん像はそれなりにかけ離れているだろうし、 それでいいと思って生きてきた。

そんな中、緊急事態宣言の3か月?間、 ジャニーズのアイドルたちは基本的に表舞台に出てこなくなった。
一方で、彼らも、私も暇である。 橋本くんは毎日ひたすらブログを上げていた。( ちなみに普段は1-2か月に一度程度の更新である)
さらに言うと、A.B.C- Zはグループで動画の企画もやっていたので、5日に1回程度、 お家で撮影したと思しき動画を見る機会があった。
つまりは、「表舞台の供給はないが、 プライベートが垣間見える供給はなぜか大量にある」状況だった。 そして、何度も言うが私は暇だった。
(蛇足だけど、アイドル側も、 私以上に公私の境目が曖昧になって大変な時期だっただろう、 とおもう)

結果として、供給されたブログや動画の内容をもとに、 私の中の橋本くん像の組み立ては急速に進んだと思う。 もうほとんど小説の登場人物みたいに。
別にこの楽しみ方が間違っていると思ってないし治す気もないけど、事実として。

そんな毎日を過ごした後、8か月振り?くらいに、生で橋本くんを見たわけで。
シンプルに、あ、実在するんだ、と思った。
あくまで舞台だから、彼自身の言葉ってカテコの挨拶くらいで、 別に組み立てた橋本くん像との齟齬があったとか答え合わせがされたとかじゃないんだけど、なんていうか、 パチンと焦点が強制的に合わされた感覚があって、 時々こうやってチューニングすることは大切だなあと思った。

舞台上で、橋本くんは、ときどき台詞を噛むし、水を飲むし、 鼻や頭をかいたりする。難しそうな箇所ではどんどん頭が台本に近づいてしまう。そのたびに、ああ生きているんだな、 と思う。
橋本くんは、今回の演技もそうだし、 普段の言動もちっとも完璧じゃない。
でも、生身の橋本くんに触れるたび、この橋本くんの完璧じゃない人間っぽさが大嫌いで大好きなんだよなあ、と改めて思わされてしまう。
(そして少しだけ、 ブログや動画で垣間見えた家の様子が頭をよぎり、 舞台に立つ彼の後ろにたしかに存在する実際の生活に、 こっそりと思いを馳せる)

生きている、実在する人を応援することって、 いいことばかりではない。 私が組み立てたり彼らに勝手に望んだりする人物像との言動のギャップに頭を殴られるような感覚になる時もあるし、逆にハッとするような、意外で嬉しい発見があったりする。 この良くも悪くも予想できない意外性が、「生きているんだな」 という思いにつながっているのかなあ。
そして、結局この「生きているんだな」 の実感を求めて私は生身の人間のオタクしているのかなあ、と思ったりした。
月並みな言葉だけど、改めて、 同じ世界に生きている人を応援できていることは、 とてつもない贅沢で、ありがたいな、と思った。 今後もどうぞ健康で、幸せな毎日を過ごしてね、 とおこがましいながらも祈ってしまったりして、 私の現場期間は終わったのでした。

現場期間振り返り、おっしまい。