沼落ちはとつぜんに

唐突にセクゾ沼に落ちた大人。語りたいので作りました。

【回顧】阿呆浪士-捨てる贅沢について-

今のところ、私の最新現場は1月23日に行った、戸塚祥太さん主演の阿呆浪士です。

こんなはずでは、、というのは一旦置いておいて、阿呆浪士、行くか悩んで職場から近いから、という理由だけでチケット取っていったんだけど、めちゃくちゃよくてですね、改めて感想を書いておこうと思いました。

あと最近暇なので、脚本をラッパ屋さんから取り寄せさせたいただきました〜〜!

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お手紙付きで送っていただき、表紙もかわいいし、中にはラッパ屋さんで上演した時の写真なんかもあって面白かったです!皆さんも良ければぜひ。

rappaya.jp

 

(写真で見たラッパ屋さんでやった時の八と貞さん、どちらも別に男前じゃなくって、今回のパルコ版、ジャニーズ起用なの結構勝負だったのかな〜なんで思うなどした!別にどちらもカッコ良い役じゃないしね。それでいて、八のあの何を考えているかわからない気味の悪さは戸塚さんにピッタリだし、貞さんの融通の効かない真面目さは福田さんの端正でしっかりした顔立ちによく合うし、改めてナイスキャスティング!!と思いました、、、)

 

阿呆浪士、何が面白かったか、というと、「自分らしくあることと自分の置かれた場所で当たられた役割を果たしていくこと」の葛藤かなあ、と思います。

そして、この葛藤を覚えること自体が、恵まれた人間にしかできない贅沢である、ということも同時に感じました。

 

というのも、「どう生きるか」の選択肢が与えられているのって常に、本物の赤穂浪士側(大石や貞さん)な気がするから。

八は一応、赤穂浪士のふりをする、とか、血判状を大石に返すことを拒否する、という決断のタイミングはあるはあるけれど、それ以外は基本的に流されているだけ。魚屋という職業だっておそらく選んでなったわけではないし、討ち入りそのものも、赤穂浪士という役割そのものを与えられてしまって、それを果たしているだけと言える気がします。

序盤に、大石がすずと貞さんたちに「建前を捨てて、武士であることをやめて自由に好きなことをして生きよう。」と説いて、討ち入りをやめる説得をするところがあるけれど、きっとこの話を八が聞いてたらすっごく怒るだろうな、と思った。だって、八たちには捨てるべき「建前」がない。そして別に好きなことを選んでやっているわけでもない。それなのに、持っている人たちが、持たざる者の生活を勝手に「自由だ」と感じて、ほしくてもほしくても手に入らないものを捨てちゃうなんて、傲慢だなと、、。

(そのあと、みんなで塩豆を食べながら、これは赤穂の塩に違いない~~っていう場面あるけど、もう完全に自分たちに酔っちゃってるよね。たぶんあの塩豆は赤穂の塩でもなんでもないんだよ、知らんけど。「大切なものを捨ててでも自分の心に素直になって自由になった自分」に酔って、捨てた大切なものの幻想を見ているってシーンかなって思った)

だからやっぱり、もう武士であることはやめにしたから血判状返してって大石に言われた八は怒っちゃう。階級社会自体はあきらめていて、お侍さんのいうことを聞くこと自体は受け入れるからせめて立派でいてくれ、簡単に自分たちが欲しくても手に入らないものを捨ててくれるな、と。八の言うとおりだと思う。結果八も大石も討ち入って死んじゃうんだから意地張ってバカみたいだな!と思わないでもないけれど、そういうプライドとか信念とかなしに人って案外生きていけないんだよなとも思う。

スカピンの討ち入りで人を斬った時の「今初めて会ったお前!てめえのために俺は生きてた!」ってセリフがかなり象徴的かなあ。スカピンはどんなに落ちぶれても、でもやっぱり自分が侍であるっていうプライドを持っていて、それのために生きていて、だから関係ない討ち入りでもなんでも命をかけて参加して、で潔く散っていったわけで、、。

 

真面目である故、一度「侍(プライド、信念みたいなもの)を捨てて心のままに生きる!」と言い切ってしまった貞さんは、「侍を捨てる」という新たな信念?にがんじがらめになってドツボにはまった感じがしますね。自分に正直に生きなきゃ!生きなきゃ!って思うあまり自分を見失い、結局一番悲惨な最期を迎える(利用した側とは言え、ある意味巻き込まれた喜多川もかわいそう)。思えば、貞さんはもともと唯一の討ち入り派だったわけで、誰よりも侍であることや忠義を大切にしていたはず。与えられた生き方=正直な自分であることだって絶対にあるはずなのに、見失ってしまったんだなあ。(これって、女の子だからってピンクが好きじゃなくてもいいのと同時に、ピンクが好きな女の子がいてもいい、みたいなものと似ているよね)

 

結局、「自由に生きる、阿呆である」ことのために必要なのは、人には生まれながらの向き不向きとか、ひょっとしたら階級とかは確かに存在していて、完全に平等なスタートラインなんてないってことを理解する事なきがします。与えられたものに反発することだけが、自分に正直であることではないので、、。

八だって、魚屋を選んだわけではないけれど、辞世の句や自信の生まれ変わりにマグロやサバを選んでるところから魚屋であること好きだったっぽいしね。

八に「人斬ったこともないくせに侍なのかよ!」的なことを言われたスカピンが「しょうがねえだろ!そういう世の中だったんだから!」って言ってたけど、そういう開き直りも大事だと思う。変えられないものをねたんだり気に病んだりしたって仕方ないもんな。

あと、立場の違う人とは分かり合えないこともある、ということも切ないながらも大事なポイントな気がする。八に怒られてから大石は反省するけど、八たちの名前を歴史に残そうと奔走する(本人たちは気にしていないのに)ところとか、も~~~全然腹落ちしてないじゃん~~ってなっちゃったので、、。まあ立場の違い関係なく人間が完全に分かり合う、なんてことは無理なんですけど。

 

今の時代は八たちの時代ほどがんじがらめじゃないと思うので(と思う私は恵まれてるからなのかもしれないが)、自分の立場や能力に応じて、生き方を選べないなら選べないなりに楽しく生きていけばいいし(どうしてもむりなら選べるようになんとか頑張ってもいいし)、向いていないのをわかりながらもそれに抗うもよし、向いているものに流されるのもよし、正しく賢く阿呆に生きていきたいですね。

 

阿呆浪士、色もきれいで演出も良かったし楽しかったなあ。八におなかいっぱい蕎麦食べさせてあげたかったな。